拡大期 マーケットを全国から世界へ 1971(昭和46)年〜

ローラーガイドの販路拡大のため、国内に営業所を次々開設。
世界各国の企業に向けて、技術サービスとPRに奔走する日々。

 ローラーガイドはフルオーダーメイドの製品です。そのうえ、鋼材の触れる部分は摩耗するので、メンテナンスと消耗部品の交換が必要になります。
 近年の経営コンサルタントは「商品を納めて終わるのではなく、メンテナンスや消耗部品の交換などがなければ、中小企業は生き残ってゆけない」と指導しています。創業社長も「自社ブランドを持つことが生き残りへの道」と考えていました。当社ではまさに、60年余り前から、それを実践してきたことになります。
 経済が右肩上がりの高度経済成長の時代に入ると、ローラーガイドは全国に販路を拡大してゆきました。1972(昭和47)年に自社直営の発寒工場の経営に乗り出した翌年、日本列島を第1次オイルショックが襲います。物価の狂乱や国をあげての省エネ対策が叫ばれ、日本経済も大きな衝撃を受けました。鉄鋼業界でも省エネはもちろん、技術や生産手段の合理化に迫られ、ローラーガイドが急速に普及するきっかけとなりました。
 北海道では調達できない資材を確保するために1962(昭和37)年、東京出張所を開設します。業界の情報にアンテナを張っておく狙いもありました。主な取引先の所在地に進出すべく、その後も仙台、大阪、岡山に営業所、名古屋、木更津、九州へ出張所を展開すると、ローラーガイドの納入先はさらに広がりました。
 海外との取引がはじまったのは1975(昭和50)年、室蘭製鐵所の紹介で商社のニチメンを経由し、インドネシアのTOBU INDONESIA STEELにローラーガイドを納めたことからです。これをきっかけにマレーシア、タイ、シンガポールなどの会社にPR、東南アジアにも認められてゆきました。
 1979(昭和54)年は東京・晴海で開催された国際見本市に初参加。アメリカのCHAPARRAL STEELからの注文品を展示したのですが、これも船橋製鋼(現・合同製鐵船橋)からの紹介でした。CHAPARRAL社では新工場建設にあたり、試験的に使った2台が好評だったことから、大量の受注をとりつけました。工場の落成式に招待を受け、社長以下3人がテキサスまでお祝いに駆けつけました。
 この時期、世界にマーケットを広げたいと考え、経済団体の視察に参加するとともに、独自にアメリカ、ヨーロッパ、東南アジア各国の企業へ技術サービスするために出張しました。技術面でも、たえず改良改善を図り、ニュータイプを次々に開発してゆきます。
 こうした積極的なアプローチが功を奏し、創業30年目の1981(昭和56)年にはイギリス、インドネシア、台湾など11カ国の17の製鐵所と取引がありました。
 しかし現在、海外取引はほとんどありません。1985(昭和60)年のプラザ合意以降、円高によって取引が成立しなくなったためです。また、世界的にコピー商品が出回るようになりました。なかには、社名や商品に「寿」と名前をつけたものまでありました。はなはだ迷惑な話でしたが、当社のブランドと質の高さが世界に認められている証でもありました。

  • 発寒工場着工(昭和42年)

    発寒工場着工(昭和42年)

  • 本社社屋(昭和53年)

    本社社屋(昭和53年)

  • 東京国際見本市(昭和54年)

    東京国際見本市(昭和54年)

  • 30周年記念式典(昭和56年)

    30周年記念式典(昭和56年)

  • 創業期

    創業期1951(昭和26)年〜


    寿産業のはじまり。

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  • 発展期

    発展期1963(昭和38)年〜


    ローラーガイドの時代。

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  • 拡大期

    拡大期1971(昭和46)年〜


    マーケットを全国から世界へ。

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  • 転換期

    転換期1984(昭和59)年〜


    開発改革・メカトロニクスへ。

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  • 模索期

    模索期1997(平成9)年〜


    次の時代へ。

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当社のローラーガイドは日本のみならず、既に海外でも需要がある製品です。
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